よくある質問

白光真宏会出版本部刊、五井昌久著「宗教問答」より抜粋

問11 世界平和の祈りの最中に雑念が出て困るのですが、これでもよいのでしょうか。

答 それで良いのです。大体祈りというものは、肉体の自分がするのではないのです。祈ろうとする時は、もうすでに自分というものが、神仏の中に一体になっているのです。このことをまず信じなければなりません。

 何故かといえば、自己というものは、本来神仏の中に本住の地があるのであって、真実の自我は、神仏の心であるのです。これが、宗教の根本なのであって、この真理をはずれては、宗教が成り立ちませんし、人間の救われはないのです。

 この世の真実は、神仏だけが実在する世であるのですが、この真実がすっかり現れるまで、悪と見え、迷いと見え、不幸と見える姿が存在するように見えているのです。

 ところが、私たち肉体界に住みついた人間は、五感、六感という感覚の中に閉じこめられていて、五感(眼耳鼻舌身)六感(五感に意を加える)の中で、すべてを感じて、幸、不幸と想っているのであります。

 祈りは、この五感、六感の束縛の中から、自己を、神仏の世界、人間の本住の地に昇華させること、させるというより、することなのであります。自分の本住の地に還ることなのであります。

 仏教では、このため、座禅を組み、心を空にする練習を、たゆみなくやっているのです。

 祈りの目的は、業想念から離れて、本心の世界、神仏の世界に、自我を帰一させるということにあるのです。

 世界平和の祈りは、自分が神仏の世界に還ると同時に、逆に神仏の世界から肉体人間の世界が平和であるようにと自己の肉体を通して、神仏の光明を、肉体世界に放射している、祈りなのであります。

 ですから、世界平和の祈りをしようとした時、もうその人はすでに、光明の世界神仏の世界に一歩足を踏み入れているのですから、そのまま、祈りをつづけていればよいのです。その時いくら雑念が湧きあがってきても、それは、業想念が消えてゆく姿なのですから、祈りには一向影響致しません。

 これで良いのかしら、と思う想いも業想念の消えてゆく姿なのです。すべての想いは消えてゆく姿であって、真実の心、祈りの心は、どんな雑念の中にあっても、光り輝いて、世界を照らしているのです。

 たゆまず世界平和の祈りをしていれば、やがてその真理が確認出来てきます。私は自分がはっきり祈りの真実性を確認して、体験として説いているのですから疑わずつづけて下さい。すべての雑念は消えてゆく姿、祈りの効果を分別する想いも消えてゆく姿、そのことを一日も早く体認して下さい。

問12 人間の運命は変えられますか?

答 運命は変えられます。変わります。易者や行者を三四軒廻ってきて、最後に私のところにきた人が、今迄の人々に云われた鑑定と私の云う言葉とが違っていて、(前の人々が二ヶ月先の悪い暗示を云い、私はそれを否定した)遂に悪い運命は出ずじまいで何年か経ってしまった、というような例が沢山あるので、運命は変えられるし、変わる、と云い得ます。

 運命を変える為には、その人が、現在までの物の考え方、行ない方などの習性を改めなければなりません。これはその人一人ではとても出来難いことなので、その為の指導者は是非必要です。

 本来運命というものは、過去世からの想念行為の集積が、今生の想念行為の波に乗って、果(か)に現れる姿を言うのでありますから、前の世からの習性の想念行為の連続で、自分の生活をしていたのでは、生れた時の観相や手相や姓名学に現れたままの運命をたどってゆくにきまっています。ですから、悪い運命と人に云われたり、現在そうした運命にある人は、現在までの想念(思想)行為を改めることはどうしても必要になってくるのです。

 怒りっぽい人は、その怒りを消し、妬みっぽい人はその妬みを去る、という工合にしなければならないのですから、一人ではとても無理だと思うのです。

 そこで、宗教の必要が起ってくるのです。何故宗教が必要になってくるかというと、宗教とは、現在のその人の想念行為とは全く別に、神仏のみ心を、その人に現わすことを教えるからなのであります。

 神仏のみ心とは、完全な善であり、美であり、真であって、悪や不幸はその中にないのであります。

 今まで習慣性になった想念行為の中に住んでいながら、その想念行為を変えようといっても、これはなかなか出来ない相談なのでありますので、宗教心なくして、定まった運命が変わるということは、ほとんどないことなのです。

 運命というのは、生れた時から一度は定まっているものなので、四柱推命学や、その他の運命学の確率が相当高いパーセンテージを示しているのであります。

 ですから宗教者でない運命学者の中には、運命は変らない、といっている人々が沢山あるのです。

 そうしたことを心に入れてから、私の云うことをよくきいて下さい。

 運命を変える為には、まず、自分というものは、自分自身で生きているものではなく、何かの大きな力(神仏)に生かされているものである、という謙虚な心になることが第一であります。

 謙虚になった心で、日々、神への感謝を行じなければいけません。自分が現在置かれている不幸とは、全く別に、神への感謝に心を籠めてゆく練習をするのです。今、自分が置かれている不幸な環境は、過去世から現在までの誤った想念行為、神仏と離れていた想念行為の為なのであって、これからもその運命がつづくと限っているわけではないのです。(これからとはこの世の未来と幽界霊界をも含めてのことです)ですから、不幸の中にあっても、この不幸は、今迄の間違った想念行為が消え去ってゆく為のものであって、これからは善くなるのだと想いつづけるのです。そうすれば、必ず運命は善い方向に変わってゆきます。その時は、生きていられるだけでも有難いと思うのです。想念を不幸から神様の方に切りかえるのです。

問16 死後の生活をわかりやすく説明して下さい。
    ―先生の信徒が死んだら―
    ―唯物論者が死んだら―

答 まず、私の体験として、死後の世界が絶対に存在するということを、最初に一般読者に申し上げてから、このお答えを致しましょう。

 死んでしまったらもう終わりだ、という考え方が、まだ圧倒的に多い世の中ではありますが、私たちにとっては、死後の世界は、この肉体世界以上に、はっきりした存在であることが現実なのであります。死後というより、この五感に感じられない世界が確実に存在するといった方がよいでしょう。

 いつも申しておりますように、大きく分けて、幽界、霊界、神界という世界が、肉体界と異なる世界として現存することは真実なのであります。

 私たちは、いつも、自分の想念のままの世界に住んでいるのですが、この肉体界では、その想いがある年月をへて、現実として現れてくるので、一寸目には、自分の想念のままに自分の世界が現れてくるとは思えないのであります。このある年月が、過去世、つまりこの肉体身の、前の世における想念行為であることが多いから無理もありません。しかし今生だけでも、自分の想念所業が、自分に帰ってきている場合も多いのです。

 そこで肉体が亡くなった後の人間という者は、その人の想いが、非常に早く、その人の環境として現れる世界に居住することになるのでその人の習慣性となっている想念の世界に、その人はまず住まねばならぬことになっているのです。

 つまり、喧嘩ぐせのある人は、そうした人ばかり集まっている世界に、おしゃれの人は、そうした人ばかりの集まっている世界に、というように、同種類の想念の人が、そこに集まって生活するわけであります。

 一口に云うと日頃からの自分の想念所業の中に、自分の生活が展開されるのです。

 ですから、神を想わず、神のみ心を自己の生活に行じていなかった人々は、神の存在を感じぬ世界、愛のない、暗い、不完全、不円満、不調和な世界に自らを置くのであります。そして、自己の生活に神仏の存在せぬということが、いかに不幸であり、不調和であるかを、その苦しさの中から感じられるのです。

 何故かと云いますと、人間の本体は神そのものでありますから、自分の本体、本心が現れずに、その人が幸福感を感じ得るわけがないのでありますし、本体はどうしても現れずにはいないのであります。

 その神の本体が、その本体を現すためには、人間として現れている霊魂の周囲を取り巻いている業想念を、一日も早く消し去らなければなりません。

 消し去るためには、その業想念が誤りであったということを、その人間に知らせなければなりません。そうした神の働きが、うちからは良心となってその誤りを責め、外からは悪い運命となって、その誤りを指摘するのであります。

 その姿が、肉体界以外の世界では、実にはっきり現れて、つまり、地獄といわれる世界となってその人の生活は、苦悶の中に行じられ、今迄の想念所業の誤りを悟らせられるのであります。

 唯物論者のように、肉体界の物の面にのみ想いを固執していた者は、その想いが神の存在を認めぬ以上は、想念が形の世界、物の世界にこびりついていて、心が自由自在な楽な境界には出られないのです、彼等は、いつまでも物の世界で争い合い、傷つけ合い、いがみ合って生活するより仕方がないのです。

 ところが、真実に神の存在を信じ、しかも、神の慈愛の現れとしての守護神の存在、祖先の子孫への愛の現れとしての守護霊の存在を信じ得る者、そして、それらの神霊への感謝の念に生きる者は、よしやそれまでの行ないが、どのように悪いものであったとしても、死後は、はっきり守護の神霊の存在を確認することが出来、それらの守護の神霊の守り給うままに生活出来るのであります。

 真に守護の神霊と想いを一つに出来得るもの程幸せな者はありません、その人々は、常にそれら神霊の指導が受けられるのですから、その生活が乱れるわけがありません。ですから現在以上に業想念の増加する憂いはなくなるのであります。

あの世は、この世より、すべての速度の早い世界であります。悪を想えば、すぐその悪の現れるように、善を想えば、すぐその善も現れてくるのです。善のうちで、神を想う程、善なることはないのです。何故なれば、神はすべてのすべてであり、完全なる能力者であるからです。

 しかし、絶対神は、すべてのすべてであるが故に、個体としてその姿を現されることはありません。それ故、人間世界には、守護神、守護霊をして、守らせ指導するような方法がとられてあるのです。最も微妙である絶対神と、人間の心の波長を合わせることより、自分に身近い守護霊に波長を合わせることの方が肉体身にとっては、ずっとやさしくて、早い時間で出来るのです。守護霊と想いが一つになれば、守護霊は常に守護神のもとに想いを交流させているのですから、肉体心、守護霊、守護神と想いがつながり、やがて、自分の本体、直霊の光明がはっきり現れてくるのであります。その時その人は、神界の居住者となるのであります。それは絶対神と一つにつながっていることにもなるのであります。

 そうしたわけで、私の教の通りに行じておられる方が、地獄に落ちることは絶対にありません。

 まして、世界平和の祈りを真剣にやっておられる人は、その行いが、そのまま菩薩としてのものですから、霊界以上の上位あるいは神界にまでも到達することが出来るのであります。

 今迄亡くなった人の中に、死後自分の境界を知人に知らせてきた人がありますが、皆安らかになられ、安らかな境界に、その死後の生活を営まれております。



→ 問17〜20へ

注: 上記回答内容等についての問い合わせ質問等は本会まで。(白光真宏会への直接問い合わせはご遠慮下さい)

ページの上部へ