よくある質問
白光真宏会出版本部刊、五井昌久著「宗教問答」より抜粋
問22 気が弱い、短気という性質は直りますか。心大きく勇気のある人間になりたいのですが。
答 気が弱いとか短気とかいうことは、あなたの性質ではなく、性癖なのであります。こうした性格の癖、つまり習慣になった想念を、あなた自身の性質である、と思ってはなりません。性質とは、神のみ心を、この世に顕現されようとして、人間一人々々に、神のみ心の一部分を分けて働かせているものであって、自分を痛めたり、人を傷つけたりするような、マイナスの面としてあるわけではありません。
人間の持っているマイナス面の働き、たとえていえば、気が弱いとか、短気とかいうものは、本来性のものではなく、人間がこの地上界に誕生して、何度びかの肉体生活をしているうちに、自然と習慣づけられた想念の癖に過ぎないのです。
ですから、あなた方が、気が弱かったり、短気だったりする癖は、過去世からの習慣性によるのであります。そこでこの癖を直すためには、すべてのそうしたマイナス面の想念は、今あなたの本質から発している想いではなく、過去世からの想いの蓄積が、今現れて消えてゆくところなのだ、あるいは消えて行ったのだ、と思いこむ練習をすることです。そうした癖は時間がたてば、必ず消え失せるものであって、いつまでたっても、自分自身の心から離れ去らぬものではありません。
あなた方は、こうした原理を知って、気の弱いこと、短気であることを悩まず、悩んだらすぐに、これは習慣の想いが消えてゆく姿なのだ、と思いこむのです。人生におけるマイナス面は、すべて神仏のみ心ではないのですから、時がたてば必ず消えさる定めになっているのです。そして、真実のもの、神仏のみ心のみが、人間すべての生活の中に、この地上界の生活の中に、やがて現れてくることになるのです。そうして世界を想像する援助として、守護神、天使の群れが、この地上界に天降ってきて、大活躍をはじめているのです。この天使群の活躍を容易にするために、私共は休みなく世界平和の祈りをしているのであります。あなたが、心大きく勇気ある人間になりたいならば、自分の弱点にばかり気をつかわず、もっと積極的に、世界人類の平和を熱望する心になり、自分という一個人を、世界人類という、大きな面に融けこませるように考えなければいけません。
自分は、日本人としての自分なのだ、自分は世界人類の一員としての自分なのだ、というように、いつでも、大きな集団の一員である自覚を強める必要があります。そうして、その方法として、常に「世界平和の祈り」の中に、自分の想念を置く練習をしてゆくことです。
そうしますと、いつの間にか、気が広くなり、勇気が充ち溢れてきて、自分の小さな癖など、どこかへ消え去ってしまいます。試してみるつもりでもよいから、この文章を読んだら、早速実行してごらんなさい。あなたの生活そのものも、たちまち明るく、希望に充ちたものになってゆくことを、多くの実例から、私が保証致します。
問23 救世主の現れる前に、天変地異、戦争などがあり、人類は悲しみに覆われるだろう、と予言されていますが、はたして真実でしょうか。
答 真実ではあったのですが、今では、そうした不幸を、この人類にもたらさずに済ませることになってきています。
どうして、過去からそのような予言があり、現在でも、様々な人々が、そうした予言を種々な方法をもってしているのでありましょう。それは、人類の業想念の波動をみていると、そうした災害が現れずには済みそうもない様相に観ぜられるのであります。そうした状態が、星の運行にも現われ、あるいは、霊的肉体をもつ人間に霊感として感じられたりして、地球世界が、大災害をまぬがれ得ないようにみえているのであります。
この世は、すべて人間の想念によって、運行されているのであり、戦争も、天変地異も、業想念の自ら壊れてゆく姿なのであります。過去から現在までの人間世界では、ほとんどの人間が、自己中心、自国中心でありまして、自分のためにならぬ者、自国のためにならぬ国に対して、常に破壊的想念思想をもっているのであります。お互いが、相手より有利になろうとしている、自我欲望の想いにみちているのであります。
こうしたお互いの想念は、必ず相撃つことは必定なのであります。これが実際に現れますと、戦争ということになります。そして、この破壊の想念が、天地自然に働きかけますと、天変地異になるのであります。
このように考えますと、霊能者ならずとも、人類の結末がおよそ予想されます。しかし皆さん、大神は大慈愛者であり、人間は神の分生命(わけいのち)、実子なのであります。大神は、地球人間は,肉体人間のみでは、必ずこうした結末に、自らを追い込むことを、初めから知っておられるのです。そこで、人類がいよいよ追いつめられたら、最後には必ず、神の方に想いをむけるであろうと思われ、また、想いを向けさせるために、各守護神が、人間の祖先の悟れる霊、つまり守護霊と共に、今こそ、その存在を人類世界に知らせるために、大きく活動をはじめたのであります。そしてその中心の大光明が救世主と呼ばれるのであり、私たちは、その大光明の地上界における働き場所として、私たちの肉体機能をすべて提供している存在なのであります。
地球を大破壊から救いたい、と過去世から想いつづけていた、世界の幾多の人々が、今生においては、手を取り合って、大光明の働き場所となり、その念願である、人類救済の行動を開始しているのであります。そして、その念願は、守護の神霊による、業想念の大きな浄めによって、地上界には、その何分の一の自壊しか現れないことになっているのであります。そのために、私共は天界との約束事である、世界平和の祈りを、一人でも多くの人々に実行して頂くように、活動しているのです。
私共が、悠々と娯楽にふけっている時も、ぐっすり睡りこけている時でも、守護の神霊は、休みなくこの人類世界救済のために、光明活動をつづけておられるのです。私は、それを誰よりも、はっきり知っているのです。知れば知る程、神霊への感謝で一杯になってくるのであります。
こうした守護の神霊がなければ、人類は必ず滅び去るものなのです。あなた方の世界平和の祈りが深ければ深い程、多ければ多い程、この地球世界は、傷つくことなく救われてゆくのです。
この真実を知ることこそ、世界人類が大災害から免れる、最初のことであり、最大のことであるのです。
あなた方は、戦争や天変地異を恐れることより先に、守護の神霊への感謝で、心を一杯にする程にならねばなりません。
ただただ、世界平和の祈り、その祈りから祈りに終る生活の中にこそ、自分の真実の天命が生かされてゆき、世界人類が永遠の平和に至る道が開かれてゆくのであります。
問29 ある新興宗教に入っている友人に、希望するものごとを強く思って祈れば、必ずそれは与えられるのだ、それが祈りだからあなたもそのように祈りなさい、とすすめられましたが、祈りとはそんなものではないと思うのですが、いかがでしょうか。
答 その人のいうことは、祈りではなく、念力であります。祈りと念力の相違については、私も時折り説明しているのですが、相当な宗教者でも、これを混同しているようです。
一つの事柄、事物を強く想いつづければ、確かにその事柄が成就し、事物を獲得出来ることが多いのです。それは人の一年巌をも通す、という言葉の通りであります。しかしそれはあくまでも、自己の業想念の念力でありまして、神のみ心がその人の祈りに答えられた結果ではないのです。
そのような念力を、祈りと考えております人は、いつまでたっても真実の神を自己の中に発現することは出来ません。何故かといいますと、そのような人は、常に自分の欲することのみを念ずる癖がついて、神との一体観ではなく、自我欲望、つまり業想念との一体観になってしまい、神の力を自己の想い通りに出来得るものと誤解し、業想念の渦の中を、ぐるぐる廻りしてしまうのです。
自己の欲するものを与えられる、ということが、神の眼からみれば、必ずしもその人の真実の幸福とは見えないかも知れません。
例えていえば、一人の女性を自己の妻にと望み、一念凝らして神にその成就を願ったとします。そしてもしそれが成就されたとしても、その妻をめとったことが、その人の未来にとって、幸福なものであるかないかは、わからないのです。
また一つの例として、ある金額を是非欲しいと思っている人が、やはり念力の力を信じて、神に対して、是非これこれの金額を私に与えて下さい、と念じたとします。そして与えられたとします。しかしこの金額を与えられたことが、はたしてその人のプラスであるか、マイナスであるかは、後になってみないとわからないのです。
自己の想いの成就したことによって、かえって不幸になった人々を、私はかなり知っております。
このようにいうと、その人たちは反問して云うでありましょう。私は神にその成就を祈ったのであり、神が私の祈りに答えて、その願いをきき入れてくれたのであるから、決して結果の悪くなりようはない、と。だが私はその人の反問に対して、次のように答えます。
「神は一人一人の人間の勝手な願いに対して、いちいちその願いをきき入れたりはしないのである。神は全智全能であり、人間は神の生みの子なのであるから、神は人間すべてのその時々の必要な環境、事物をちくいち知っておられるのである。だから特別に一念凝らして願ったから、その人にだけ特別に願いをかなえられるようなことはなさらない。神が人間になさって下さることは、人間が真実心の平安を得、自己の生命が神と一つのものであることを確信出来得るようになり、愛と真と善と美のある生活を送り得るようになさることであって、それは祈りによって成就され得るのである。その祈りとは、自我欲望の想念つまり、こうして欲しい、ああなりたい、という想念のすべてを、神への感謝の想いにかえてしまうことである。
自我欲望の想いをかなえて貰おうとして、神に願って、かなえられることは、神がかなえてくれたのではなく、想う通りになる、という業想念の法則が、自然的に活用されてかなえられたのであるから、その未来における結果が、幸であろうと、不幸であろうと、それは神の関知しないことなのである。そのような念力は、預金がないのに手形を発行しているのと同じことで、一時逃れは出来るが、やがて借金で首が廻らなくなるようなものである」
おかわりになりますか。なかなかむずかしいことなのであります。この説明を誤解なさらぬように、もう一度、くわしく説きましょう。
人間は神からきているものなのです。神の分生命なのであります。ですから、自己の欲するものを神に願ったとして、決して間違いではないのですが、自己の欲望想念で神に願うことが祈りである、という誤解は、その人の進歩を大いに阻害すると私は云うのです。
肉体人間は誰でも、自己の欲望想念があるに決まっていますから、自己の希望を神に願う気持が出るのは否めませんし、それは決して悪いことでも間違ったことでもないのです。
しかし、それが真実の祈りになるためには、そうした願望を、一念凝らして想いつめることでも願いつづけることでもなく、そのような願望は、その願望が起ったと同時に、神にすっかり預けてしまい、神への感謝に想念をかえてしまうのであります。神への感謝ということは、神の心に自己の想いが一直線に通じていることなのであります。感謝の想いは、相手に同化する心なのであります。神の心が自己に流れ入ってくれば、自己に必要なものは、必ずかなえられ、成就されるにきまっているのです。
そうした想いで成就された物事、事柄こそ、真に神によって与えられたものであって、その未来の結末が悪かろう筈がないのであります。
祈りとは、自己の想念を、すべて神に全託することであって、その深い浅いはあるのですが、念力の願い事とは全く違うのであることを皆さんが深く認識して下さるように願います。
ですから、自己の願い事も、すべて、世界平和の祈りの中に包含してしまうと、その願望が、その人の真の幸福のために必要であれば、必ずかなえられるのであります。要は個人々々も、人類も共に真の幸福生活に入るための祈りであることを忘れてはなりません。その場その場のご利益だけでは、祈りの真の効果とはいえないのであることを心得ていて下さい。
念力による希望達成ではなく、真の祈りによる天命の達成、その天命成就のための必要なる事物、事柄の獲得ということにならぬ限り、個人も世界も、本当の幸福をつかむことは出来ないのであります。
注: 上記回答内容等についての問い合わせ質問等は本会まで。(白光真宏会への直接問い合わせはご遠慮下さい)