よくある質問
白光真宏会出版本部刊、五井昌久著「宗教問答」より抜粋
問39 病気も業も消えてゆく姿だと、知識ではわかるのですが、私自身も病人に対しても、すっきりと割り切れないのです。私は情に把われすぎているのでしょうか、どうすれば平静な、そして温かな態度で病人に接することが出来るでしょうか。
答 この問題は、光明思想の普及者の一度は通らねばならぬ関門であります。生長の家などでは、病気は無い、今直ぐ立て、と云っていまして、神の創り給うた完全な人間に病気などあるわけがないと云い切っているのであります。これは真理であり理論としても頷けるのでありますが、実際問題としては、なかなか実行し難い教であって、精神力の弱い人の喝にはなりますが、その半面、それをうのみにして、自分自身に行うのならまだよいのですが、雇人や、お嫁さんなどにその教の通りを実行させようとしている人がかなりあるのです。
先日も、私のところに来ている人の知人が、嫁の身で肺をわずらったのであります。当人は体がだるく、呼吸も苦しいのですが、その姑さんが、生長の家の信仰に厚く、「病気は無い、今直ぐ立て」をお嫁さんに実行させるので、お嫁さんがいくらだるくとも、苦しくとも寝ることも出来ず、次第にやつれはててしまったのです。見るに見かねたその知人が、私のところに連れてきたのであります。私はそのお嫁さんの体を見てびっくりして、「これはいけない。こんな体で働いていたのではまいってしまう。家では気兼ねで寝ることは出来ないだろうから、病院に入って、暫く安静にしなければいけない」とその人に口添えして貰って入院させたのであります。
私はこのお嫁さん自身が、生長の家の教を信じて、自発的に働いているのなら、そんな注意はしなかったのです。それは信仰の極度に強い場合は、真理がそのまま生きて、働いているままで病気の直ることも、時たまあることだからです。それには実に深い信仰心のいることであって、それこそ不退転の大決意がなければ危いことであるのです。ところがこのお嫁さんの場合は、ほとんどそうした信仰がなかったのですから、実に危険なことだったのです。そのお嫁さんは、病院での手当によって今では大分快方に向っているようであります。
私は生長の家式の病気は無い、は凡夫には危険だと思って、あなたの病気は過去世から今生にかけての、悪業想念行為の消えてゆくために現れている一つの症状なのだから、心をおびやかさず、ひたすら守護の神霊への感謝行の方に、不安の想いを投入させて置きなさい、痛みが出ても、不安が出ても、懸命に守護の神霊への感謝に、自己の想念のすべてを投げこみなさい。そのうちにあなたの完全性である丈夫な体が、うちから現れて、やがて健康な体に立ちかえるのですよ、と説いて聞かせているのです。その間、薬を飲もうと、注射を打とうと、それには私は一切口をはさまぬことにしているのです。その人がこの世にまだ役目のある人ならば、守護の神霊は、必ずこの人の内部の力を引き出して、この人を癒し去ることを私は知っているからです。注射や服薬が、ある時は病人の内部の癒す力の邪魔をすることもあるのですが、それさえも守護の神霊の癒しの力の前には問題ではなく、癒える時間が少し遅れるだけなのであります。
ですから病人を看護する時には、看護するその人が、真剣に病人の守護の神霊に対してその人の病気の速やかに癒ゆることを願い、感謝を捧げてやればよいのです。上すべりしたような言葉で「病気はないのだ」とか「病気は業の消えてゆく姿なのだ」などと言ってきかせても効果はなく、かえって病人から冷い人だと思われるぐらいが落ちです。
言葉というものは、何も声に出さなければならないものではないので、消えてゆく姿という真理の言葉を、看護しているあなた自身が、はっきり自分で認めていれば、そうしたあなたの信念が、相手の心に伝わって、病人の生命力に力を与えてゆくのです。
間違った宗教者のように、「それは業だ」と冷い言葉を病人に浴びせたり、「病気は無いのだ、無い病気になやむものはおかしい、など、と出来そうもないことを云ったりすることは、私の感心していないことです。私は病人に対しては、普通の場合は、やはり温かく、心からの同情心をもって接してやり、生じっかな説教めいた口はきかぬ方がよいと思っているのです。その人が一体癒える病人か死ぬる病人かは、霊覚者以外にはわからぬので、誠心誠意を尽してあげることが大事であると思います。
問41 姑さんと仲良く暮せる方法を教えて下さい。
答 嫁となり、姑となるのは、前生からの深い縁(えにし)であって、偶然にそのつながりが出来たわけではありません。大体において、嫁となっている女性は、過去世において、その姑となっている人に深い恩を受けていることが多いのであります。実母が今生における最大の恩人であることは、誰にもわかりますが、姑が過去の世での恩人であるとは、誰しも思いはしないでしょう。ですから、今までなんの恩義もない赤の他人を、急に母のようにしろといわれても出来る筈がありませんとか、実母のように愛情を感じる筈がないではありませんか、などとお嫁さん側が云っているのです。
しかし、私たちのように過去世のことと今生との深いつながりを知っている者にとっては、過去世と今生がはっきりつながって見えるので、お嫁さんは、姑さんをそういう意味の恩人だと思って、過去世の恩がえしのつもりで尽してあげなさい、と云いたいのです。そうしていかないと、それだけの過去世からの心の負債を、やがて、どこかで無理に払わされるような結果になって、未来で大きな心の痛手を誰かから負わされてしまうものです。
そういうことなしに、現在だけで考えても二十何年かを、手塩にかけて育ててきた息子を、他の人に渡してしまうということは、その母にとって、どれだけの気落ちになるかわかりません。若い人が恋人を他の人に渡してしまった、とほとんど同じ感情なのであります、そうした姑の感情を考えてやって、その感情を少しでも柔らげてやるような思いやりがあれば、きっと、姑さんとの仲がうまくゆくと思います。姑さんと仲良く出来るようなお嫁さんは、人間としても必ず立派な人であり、神の祝福を受ける人であることを私は疑いません。
問43 子供を育てるにはどのような心構えが必要でしょうか。
答 一口に申せば、子供は神様からのあずかりものである、と思うことを根本にして、子供の中には、神様の生命と、神様から分けられた智慧や能力が、ひそんでいるので、親となった者は、そのひそんでいる智慧や能力を、子供の表面に発現させて、その生命力を生々と輝かせてやらねばならぬ役目をもっているものなのだ、と思うことであります。
自分が生んだのであり、自分たちが育てたのであるから、自分の権限内のものである、という思い方では、後に必ずといっていい程、その子供たちのことで悩まされるようです。そうした考えですと、どうしても、自分の利害関係や自分の気分で子供を縛ってしまうから、子供とのあつれきが生じるのです。
子供を自分の心で抑えつけて置くようでは、子供の生命力や、内部から湧き上がってくる生長力をさまたげるようなもので、その子の天分を完うさせることは出来ません。
子供を立派に育てる最大の秘訣は、まず親である自分が、正しく美しい心になろうと研究練磨する心掛けを持ち続けることです。
その一番やさしい方法は、万物への感謝、特に守護の神霊への感謝、生命への感謝であります。眼にふれ、手にふれ耳に聞える、すべてに対しての感謝の想いと神に対する感謝の想いこそ、あなたの心を正しくし、美しくする最大の効果をもつものでありましょう。
子供の教育には理屈はいりません。ただ愛と感謝の想いが、子供たちに通じるようにすればよいのです。愛と感謝に充ちていれば、その人は自ずから柔和であり、美しくあるのです。
その心が根本にあれば、あとは時々の勉強によって、子供をよりよく導き育てることは、非常に容易になるでありましょう。
子供はまさしく、親の想念行為の鏡であります。それはその親子の前生からの想念行為をも加えてのものであるのですから、今あなたのお子さんが間違った道を歩いているようでしたら、そのお子さんとあなたとの過去世の業因縁が、今消え去ってゆくところなのだ、とひたすら守護の神霊に、感謝の祈りをささげるとよいのであります。
問45 浄霊と除霊の相違についてお教え下さい。
答 浄霊と除霊とは全く違った方法なのですが、普通の人にはわかりようがありません。しかし知識として知って頂いてもよいと思って、この質問にお答え致します。
浄霊というのは、霊、つまり霊魂の曇り、妄念を浄めることをいうのですが、この浄霊を致しますと、憑依されている人の魂が浄まると共に、憑依している霊魂の妄念も浄められて、再び他の人々に悪影響を及ぼすことがなくなるのです。私が日々やっておりますのは、この浄霊の方であります。
除霊というのは、その人の障碍になっている妄念を払って、その人から除くことであって、憑依した霊魂を浄めてやるわけではありません。この除霊ですと、憑依された一人の人は、その障碍を除かれますが、憑依した霊魂の妄念はその人から除かれただけで、浄められたわけではないので、また他の因縁のある人に憑依して、その人の障碍となるのです。
(注 憑依されて障碍となると、それがその人の病気や不幸となって現れるのです。自殺や、事故死の場合は、この憑依作用のさわりによることが多いのです)
普通の行者層は、大体、この除霊をやって、頼みにきたその人だけを救ってやることが
多いのです。何故かといいますと、浄霊の場合は、憑依している霊魂の妄念と、障碍され
ている人の魂の両方を浄めて、一段高い境界にその霊魂を昇華させるのですから、つまり
自由の心にさせるのですから、除霊の場合より非常に高い浄めの力が必要だし、時間も相
当にかかるのであります。よほどに高級な神霊が背後で働いている宗教者でない限りは短
時間で浄霊が出来ないので、除霊して、依頼者に満足を与えるわけであります。ですから
そう高い背後霊はついていないのに、非常に速やかに病気を直す行者や宗教者がいるので
す。これは皆除霊する人々です。除霊するだけでも、その依頼者には、それで良いのです
が、人類救済という意味では、そう役立たないわけです。人類を救うためには、眼に見え
ない世界の妄念、つまり幽界の汚れを浄め去らない限りは駄目であるからです。
それは医者が、注射や服薬によって、一時病人を直したとしても、それは一時、その人
の症状を抑え得たというだけで、その人の業因縁、つまりその人の過去世から積んできた
誤った想念行為を浄めたわけではないのですから、またなんらかの機会に、他の病気や、
他の不幸になって、その人の上に現れてくるのです。
病気も様々の不幸も、すべて過去世から積んできた業想念の現れて消えてゆく姿なので
すから、その消えようとするものを、ただ抑えて現さぬようにしても、その業想念が減っ
たわけではないのですから、その人が真実の救われの道に入ったわけではないのです。と
は云っても、除霊によって、あるいは医薬によって、一時でもその人の苦痛を救う、とい
うことにも意義がないわけではありません。病気をしているその人が、その苦痛によって、
この人生やこの人生を生みなしたものへの反撥を抱いたり、その周囲の者の心を暗くした
り、痛めたりする時間が永くつづくことは、やはり新しい業想念をこの世に積んでゆくこ
とになるから、一時にしても、そうした業想念を積ませぬように、人間の苦痛を取り去っ
てやるということにも、それ相応の意義があるのです。
こう考えてまいりますと、短い期間で人間の苦痛を取り、しかもその魂まで浄めることが出来れば、それが最高の治療であり、最大の愛の行為ということが出来ます。
そうした浄めのために、私たちは日夜祈りつづけているのであります。その最もやさしく最も効果ある祈りが、私の唱えている「世界平和の祈り」であるのです。世界平和の祈りこそ、自己が救われると同時に、自己の周囲、国家人類をも救う、偉大なる祈りというべきなのであります。何故偉大かというと、この祈りは、肉体の私の提唱したものではなく、神界の救世の大光明から、私に提唱させている祈りだからであります。現代は、もはや、観念論的宗教理論などではもうどうにもならぬ時代になってきているのですから、気づいた人たちから、いち早く、人類世界の業想念の大きな浄めである、世界平和の祈りを各処に宣伝して、大いに拡めて頂きたいと切望するのです。
注: 上記回答内容等についての問い合わせ質問等は本会まで。(白光真宏会への直接問い合わせはご遠慮下さい)