よくある質問

白光真宏会出版本部刊、五井昌久著「宗教問答」より抜粋

問3 どんな病気でも信仰で癒りますか。

答 いかなる深い信仰に入ったとしても、万病が癒るということはありません。病気と肉体寿命とは自ずから異なるので、信仰深き人でも、病気のような姿でこの世を去ってゆくことは多いのです。釈迦牟尼世尊すらその通りです。しかし、信仰深き人は、その体が病気のように人には見えようとも、自らは想いを神仏にゆだねているのですから、気を病んでいることはありません。その人は、すでに病気を超越しているのであって、肉体をぬぎすてて他界へ転移する時期がきたため、霊魂がその生命力を肉体から次第にぬいているので、肉体が衰えてゆくのであります。それは、もう病気ではなく、自然の現象というべきでありましょう。

 ですから、寿命があれば病気は必ず癒り、寿命が終われば、いかなる聖者も、病体の如くして他界するのであります。

 人間の寿命は三段に分かれていて、第一の寿命、第二の寿命、第三は定命といって、いかなる人も定命で他界するのです。

 自己の悟り、あるいは霊界の援助があって、病気が癒ることが沢山ありますが、これは第一あるいは第二の危機を乗り越え得たということで、定命を変え得たことではありません。しかし、信仰生活に入っていれば、普通は第一なり第二なりの寿命の危機で他界すべきを、定命迄生ききれることがなかなか多いのです。

 こう考えますと、無信仰の生活よりも、信仰生活に入っている人の方が、この世の生活を長びかせることも出来、安心して生活してゆくことが出来やすいのです。

 信仰ということは、実に素晴らしいことであって、病気になっても、これを癒し得ることも出来、病気の苦悩を超越することも出来るのですが、一番願わしいことは、病気を癒そうとして信仰に入るのではなく、生きても死んでもよいから、真の安心立命を得たい、神仏とつながりたい、と思って入信することなのです。そうした信仰態度こそ、大きな奇蹟を巻き起こすものなのです。

問4 信仰すれば商売が繁昌するようになりますか。

答 商売の繁昌と信仰とは、直接はなんの関係もありません。

 しかし、信仰生活に入ったら、急に商売が繁昌しはじめた、という人もありますし、かえって、商売ががた落ちになってしまったという人もあります。

 これはどういうことでありましょう。

 信仰に入って商売が繁昌しはじめた、という場合も、いくつもの理由があります。

 一つには、私はこのようにして神様にすがっているのだから、うちの店は絶対に繁昌する、という確信による明るい気持が、客側に伝わって、なんとなく明るい店、感じのよい店、という工合になって、人をひきつける。

 二つには、私は信仰しているのだから、信仰の精神を客に尽そう、というまごころで、一生懸命にサービスをするようになり、そのサービス精神が店を繁昌させる。

 三つには、その信仰の対象、つまり、宗教団体なり、神社仏閣なりの霊団の力が、客に感応して、客を力でひきつける。

 この場合は、善悪二種類がある。善の場合は、その人の真実神仏にゆだねて真心に感応して、高級神霊が、力を貸してくれる場合、悪の場合は、その人の利欲の想いで、教団なり、神社仏閣なりに献納する供物につられた低級霊(欲望で踊る人霊、動物霊)が、客に念力を送って、その店にひきつける、という場合とであります。

 前の場合は、そのまま結構ですが、後の場合は、これはしまいに実に困ったことになってくるのです。

 それは、どういうことかと申しますと、はじめから、欲と欲とで動いている同志の結合で、神霊が働いているわけではないのですから、片方が欲ばれば、片方も欲ばるで、献納が少なかったり、供物が少なかったり、気に入らないことがあったりすると、たちまち、念力で客を退けてしまって、その店を滅してしまいます。それも、低級霊側が次第に欲ばってゆき、遂には、店主の方が、いくら上げても、満足せず、もっとよこせ、もっと上げろ、と脅迫しつづけるのです。

 それは、その教団の教主なり講師なりを通して行われるか、あるいは、神社仏閣ならば、夢とか、他人に告げさせるとか、商売が次第に衰微してくることによって知らされるかして、常に不安の境地に追いつめてゆきます。

 こんなことになってしまったら、それこそ大変です。ところが、このたぐいの信仰が、実に多いのでありまして、現在信仰によって、商売が繁昌している人々でも、よくよくこの理を考えて、自己の心を反省してみるとよいのです。

 自分は果たして、どの系列に入るのか、をじっと考えてみるべきです。考えてみて、ああ、これではいけない、と思ったら、その宗教や、そのお詣りを直ちに止めて、その時は一時店が衰えるかもしれないが、勇気を出して止めてしまい、真実の教を説く宗教入りをして、正しい信仰に入るのが智慧というものです。

 商売繁昌の秘訣は、奉仕精神(愛)と明朗さであって、神社仏閣詣でではありません。信仰とはそうした愛と真の精神を自己のものにするためのものであることを思うべきです。

問7 家庭平和の秘訣を教えて下さい。

答 一口にいえば、お互いのおもいやりにあると思います。一つ家庭に、妻となり夫となり、父子となり、母親となって生活するということは、過去世からの深い縁によるのです。というより魂的に深いつながりがあるのです。

 貴方がもし悪妻をもち、貴女がもし低級な夫をもったとするならば、それは、貴方や貴女が、過去世において、そうした妻であり、夫であった証(あかし)であり、その負債を今生において払っているのであることを、まず知らねばなりません。

 そうしたことを認識することが、家庭を現在より以上に明るくする第一歩です。もし幸いに、夫も妻も、息子も娘も、まずまずの出来であったなら、朝に夕に、一日全部の守護の神霊に感謝を捧げて生活する習慣をつけることであります。ところが、配偶者や、こどもたちの出来が悪い場合には、口で言うように、神様に感謝することが出来ません。そこで、私は、過去世からの因縁説を説くのです。

 自分の出した想念、自分のやった行為、これは善悪共に必ず、自分自身に還ってくるのが、この世の法則なのです。愛すれば、必ず愛されます。憎めば必ず憎みかえされます。ただ時間的に直ぐに還ってこないだけなのです。人間は何度でも生まれ更って生活しているものなので、前世のことは、今生で払うことになってくるのです。ですから、その人の現在の生活は、過去世プラス今生の想念行為ということになってくるのであって、易や姓名学などの鑑定は、過去世のその人の想念行為の集積を、人相や姓名や、生年月日に見るのです。これを先天運というのであります。

 ということから、この世には、先天運的に家庭運の悪い人と、善い人があることになるのです。家庭運の善い人はそのまま万物に感謝出来る立場にいて結構なのですが、悪い人の場合は、一旦は悪いのが今生の運命なのだ、と諦めてしまって、その諦めから再出発することが肝要です。

 一旦すっかり諦めてしまうと、人間は案外気が楽になるものです。よくしようしようと力んでいるから苦しいので、とにかく一旦諦めてしまって、自分の想念を、なんらかに集中させてしまうのです。そのなんらかは、神様が一番よいのです。―自分を生み育てて下さった神様、どうぞ、あなた様の一番いいように、私の運命を進めて下さい。私は今、どうしようもないのですから、あなた様にすべてをお任せ致します―と、何もかも自分をこの世に生み育てて下さった神様にお任せする気になって、そうした祈り事を、朝、昼、晩の閑ある限り祈り続けるのです。そうしていますと、意外な程、心が落ちついてきて、誰の目にも、それ以前のあなたとは、まるで違った人間に見えてくるし、自分でも何かこう安心したような気持ちになってくるものです。そう致しますと、家庭の人たちが、これもやはり、以前とは異なる雰囲気になってきて、必ず、あなたに親しさを見せはじめます、そうなってきたらすかさず、その人たちの背後に在る守護の神霊(これは必ず守っているのです)に向かうつもりで、心の中で守護の神霊への感謝をはじめるのです。そうした祈りをつづけていますと、思いもかけぬように、家庭が明るくなり、平和になってくるのです。そんなうまい工合にいきますか、と云うなら、嘘だと思ってもいいからやってご覧なさい。やらぬ以前とは比べものにならぬ程よくなってゆきます。何故ならば、神は愛であって全能なのですから、神に運命を任せている人間を不幸のままにしておくわけがないからです。

 ともかく、神の愛を信じ、夫なり妻なり子供なりの奥底にある神のみ心の善なることを信じ、自己に都合の悪いような出方、自己を困らせ、嫌がらせるような言行を、相手がしてきた場合は、すべて自分の過去世からの誤った想念行為が、そうした形になって消え去って行き、やがては家庭が円満になってゆくに違いない、と信じて、相手を責めることを止めることです。

―信ずるものは幸なり―



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