よくある質問

白光真宏会出版本部刊、五井昌久著「宗教問答」より抜粋

問17 私は小児麻痺の子を持つ親ですが、手足はきかず、ものもよくしゃべれぬその子のためには、思い悩んで種々の宗教団体にも入りましたが、成人になった今日までもまだよくなる傾向がありません。私はこの先、一体どういう想いで生きてゆけばよいのでしょうか。また無邪気な清らかな子供がどうしてこのような体で生れついてきたのでしょうか。

答 こうした問題は、日本ばかりでなく、諸外国にも沢山の例があり、いずれの親御さんも悩み続けておられるようで、お気の毒に耐えません。

 小児麻痺と精神病とは、全治しにくい病の双璧といわれ、現在の医学では、軽症者を除いては、ほとんど癒やされていないようです。あなたのお子さんも勿論医者にもかけられたでしょうし、その上各宗教の祈祷も受けられたようですが、それでも癒らないのですから、一度、癒そうという想いを、すっかり捨て切ってしまわれて、その子を生んだために、そうした苦悩の日々を生活しなければならない、そうした運命の廻り合せ(因縁因果)を、過去世における自分たちの想念行為の消え去ってゆく姿と、諦めきる想いの習練をなさることです。

 こんな答を私がするのは、私の教の根柢に、神は絶対の愛であって、人間を不幸のままに置くわけがないのだ、という深い信念があるからなのです。神は人間の生命の元であり、一瞬の休みなく、人間の内部で働き続けているのでありますが、人間は過去の世からの自分たちの誤った想念行為によって、この生命の働きを不自由にしてしまっているのです。この生命の不自由さが、種々の病気や不幸の原因となっているのですが、小児麻痺や精神病の場合は、ほとんど、そうした生命の不自由な波長に、迷界(死後世界の迷える界)の祖先や親類縁者が感応してきて、体におぶさってしまうので、肉体も精神も不自由になってしまうのです。ですから、その憑依(ひょうい)している妄念を悟らして憑かれた人の体から離してやらなければ、癒ることは出来ないのです。各国の医学者がその治療に真剣になっていながら、その成果が挙がらないのは、そうした見えない世界の病原因を知らないからです。

 病気とは、肉体的な故障と、精神的原因、他界からの干渉によるものとの三通りあるのですが、現在の医学が、第三の他界からの干渉に関しては、ほとんど関心を払っていない状態なのですから、他界のことのわかる人々、つまり心霊研究家や宗教者の援助がなければ、そうした病気が全治することが難しいのです。

 あなたの場合、種々の宗教家にも看て貰ったとのことですから、今度は、先程申し上げた心構えと同時に、神の大愛が、あなた方の運命の守護をする役目として、守護霊、守護神を、あなた方の背後につけていて下さることを、素直に信じることをお薦め致します。

 守護霊は、祖先の中の悟った人の霊ですから、あなた方に障礙(しょうげ)している妄念の想いを、はっきり知っております。知ってはおりますが、あなた方が、あなた方の想念の中に、自分とぴったりつながらない、肉体界につきものの、過去世からの業想念(不安、恐怖)神を離れた想いがあると、その障礙を払い浄める力(光明)を、あなた方に強く送りこむことが出来ないのです。

 ですから、あなた方が一度、癒そうという想いさえ捨てた、(癒そうと思うから、焦り、恐れ、種々の想いに執着するのです)空っぽの心になって、守護霊、守護神に、真剣な感謝を捧げるのです。

 神様は、愛なのだから、自分の子供である私たちに悪いように、するわけがない、と思いこむようにして、神様に自分の前途も、子供の前途も一任する気になることです。

 あなた方の不幸な病気は、あなた方に真の幸福(真理を知らせる)を与えるために、業(カルマ)の消えてゆく姿として現れているのです。一日も早く、自分たちは不幸だ、という気持を消し去って、自分たちが真実の幸福、永遠の生命、神につながるための、一時の不幸的現象なのだ、という想いに、心を切りかえて下さい。

 また、純真な幼児が、どうしてこんな不幸な病気になるのでしょう、というご質問ですが、人間というものは、今、この世に生れたことが、生命として活躍の最初ではないことを知らなければなりません。

 一つの生命は、自己に与えられた神からの使命を、霊、幽、肉の三界を経巡りながら、果してゆこうとしているのであり、その間に生じた種々の妄念を幽体に潜在意識(ひそんでいるこころ)として蓄積したまま、今生(現世)の肉体人間として生れ出でているのであります。それで、今、赤児として生れ出でたとしても、その赤児の生命の周囲には、過去世からの想念行為が音盤のように録音されていて、それとおなじような波動(ひびき)に合うと、響鳴して鳴り出すのであります、それがその児の運命となって表面に現れてくるのです。その響鳴させる相手が両親の過去世からの業であるといえるのです。

 質問の小児麻痺の場合は、子供と両親との過去世からの業が、響鳴し合い、そこに他界の妄念を呼び寄せた、ということになるのであります。しかしこれは、あなた方に、あくまで神の生命を素直にすっきりと顕現させるためのものであって、そうした苦しみに会わせて、あなた方を責めさいなもうとするようなことではなく、潜在意識に蓄積されている過去世からの業を、表面に出して消し去ろうとする神の慈愛なのでありますから、今の苦しみは、肉体人間としてのあなた方にではなく、生命(霊)としてのあなた方にとって一大進歩となる苦痛なのであります。この理をよおく考えて、想いを不安や恐怖や、神への不信感にもってゆかず、守護の神霊への感謝に切りかえてさえゆけば、あなた方の生命が、すっきり光明化してきて、今迄癒えなかったその子の小児麻痺も癒えてくるかも知れないのです。もし癒えぬとしても、あなたの心は必ず安心立命の境地に入ることが出来、あなたの今後の運命は明るくなり、子供の霊魂は高く昇華してゆくことを、私が保証致します。

問18 現代の心ある人は個人の救済に満足せず、大きく社会、国家の救済幸福を要求していますがそれにはやはり政治がよくならなければと思います。宗教と政治について先生はどのように考えておられるのでしょうか。

答 私にはこれという政治観はありません。何故かというと、私のすべての考えを、神様にお任せしているので、その場その場において、叡智がきらめき出でるからです。しかし今、私がはっきりと云えることは、世界は決して唯物論政治には屈しない、ということであります。ソ連といい、米国といい、唯物論政策の政治家の政治では、絶対に世界の平和は出来得ないということであります。

 聖書の言葉のように”カイザーのものはカイザーに、神のものは神に返せ”でありまして、神からきている人間生命を、自民族、自国家の利得に反するという理由だけで、他民族、他国家の損失を顧みず、国力をもって虐げ、責め裁く大国の態度は低劣であります。神はいかなる国家民族にもこうした権限を与えてはいないのです。

 ですから、資本主義制度も、社会主義、共産主義制度も、こうした根本的理念に反する動物的方法が用いられているようでは、その政治は正当なものではないのです。これは一国家内の政治においてもいえることでありますので、現在行われている日本の政治も、神の叡智の全く働いていない政治であるといえましょう。

 どのような制度に政治の形を変えようとも、政治家の心が、神の叡智を受け入れ得るようでなければ、到底国家を安泰にし、世界を真の平和に導くことは出来ません。

 施政者の心が、神の叡智を受け入れるまでに浄まれば、政治の形や、制度は自ずから定まってくるもので、そうした心における政治こそ、不安なき揺ぎなき政治と成り得るのであって、その場の利害損失のみで動く政治は、一時はいかに善く見えようとも、失敗に陥るに決っております。

 神の叡智が画いている政治というものは、現在どこの国家にも現れていない政治方式であって、神権政治とでもいいましょうか、肉体人間の上に、神霊を置いての政治であります。この具体的方法は、まだ神からはっきり示されておりませんが、ただひたすら世界平和の祈りをなせ、世界平和の祈りと守護の神霊への感謝をなし続けよ、さすれば、驚天動地の方法で、世界平和を生み出す政治がなされるであろう、ということだけは、はっきり示されているのであります。

 なんにしましても、世界人類の大半の心が、現在のように、神の実在に確信をもてず、まして、神霊の光明が肉体世界の平和のために、働きつづけているという事実を全く知らずにいるようでは、とても世界平和に至る政治など行なえようもありません。

 そこで、私たち神霊界と肉体界とにおいて、同時に働いている人間たちが、お互いの祈りによって、神と肉体人間とを隔絶させている業想念の波を、拭い浄めつづけているのです。自我欲望の業想念が人類世界に満ち、そうした業想念によって、各国の政治が行われている以上、地球世界は滅亡に至るより仕方がありません。

 この地球世界の滅亡を防ぐのには、いかなる政治政策よりも、各人の世界平和の祈りを第一にしなければならないのです。

 私はその最先達として、皆さんにこの世界平和の祈りを、種々と説き聞かせ、一人でも多くの祈りの使徒を、増やしてゆきたいと念願しているのです。

 私の現在の政治観を、強いていうならば、祈りによる神権政治の出現というわけでありましょう。

 しかしそれまでの私たちは、現実の政治面の動きをどうしたらよいのでしょう、と訊く方もありましょうから、それについての私の考えも一寸説明致しておきましょう。

 私は根本的に、神を無視した政治を嫌います。米国とソ連が、現在の二代強国ですが、そのどちらがより唯物論的でありましょう。日本の立場は、好むと好まぬとに関わらず、米国かソ連かの二大陣営に組みしなければならぬ立場にあります。中立などといったところで国力のない日本が、中立を保ってゆける道理がありません。中立を保つためには、国民の思想感情が、すっかり統一されていなければ、とても駄目なのです。ところが現在の日本の思想感情は、米ソの二大国に半々に分れているのですから、両国側の呼びかけ次第で、国論が二つに分れてしまい、中立になり得ません。

 こう考えますと、まずより無事な政策をもち、極端な革新を行わず、今日までの政策状態で、あまり人権も無視しなかった、表面クリスチャン国である米国を選ぶ方が無難であろうと思います。ソ連のような徹底した唯物論国、人権無視をなんとも思わぬ国との交渉は、なかなか容易ではありますまい。

 これも、現在の業生世界における、一時期の考え方であって、私にとって、このことはさして重要な問題とは思えないのであります。

問20 まかせる、ということでは、人間世界に進歩がないではないか、と青年層の人々に、常に質問されますが、この点についてお教え下さい。

答 まかせる、とか、お任せという言葉は、何もしないで、ぶらぶらしていて神様におまかせしてある、などということではありません。

 この言葉は、自然法爾(じねんほうに)ということと一つでありまして、今までの宗教の教では、なかなか出来難いのであります。このまかせる、という心境は自分のものを、人にまかせる、というような浅薄なものではなく、神からきている生命なのだから、神様のご自由にお使い下さいという意味のおまかせになるのであります。

 イエスのように十字架にかかるようなことがあっても、じたばたしない程の心になることが、お任せなのであります。たとえ、どのような自己に不都合に見える事態が起ころうとも、不平も不満もなく、感謝の出来る心境、これが、真実のおまかせの心境なのであります。あなたに質問なさる青年たちは、もちろんこんなに深いことを考えて、あなたに質問したわけではないと思いますが、真のおまかせとは、このように絶体絶命の境地に、常にいることなのであります。良寛和尚などは、このお任せに徹していた人のようでありまして、ある時、一人の船頭が良寛の心を試みようとしたのか、船から良寛を突き落したのであります。すると良寛は、落されたそのまま、手足をばたつかせもせず、ふわりふわり水の上を流れてゆくではありませんか、その様子に、帰って落した船頭の方があわてて、水から救い上げて、平詫まりに詫まったそうでしたが、良寛は、自分が落されたことを知っていながら、にこにこしつつ、船頭に心からお礼を云った、という話があるのです。

 私はこの話を思いだす度に、良寛の偉さに敬服するのですが、これ程にお任せに徹していれば、何ものにも恐れず、何事にもあわてることがあるまい、と思うのです。

 落されることも仏のおぼしめし、救い上げられたことも仏のおぼしめし、落された恨みはないが、救い上げてくれた仏の代理の船頭さんには、いくら感謝しても感謝しきれないものが、この時の良寛にあったことなのでしょう。

 落される因縁があって、落されて死ぬのも仏のおぼしめし、と思えば、落とした船頭に恨みのあろうわけがない、ということを、その時わざわざ思うのではなく、常日頃からそうしたおまかせの心境にあった良寛であればこそ、救い上げられて、無邪気に礼が云えたものなのでしょう。偉いものです。

 ところが、普通の一般人が、こんな真似はとても出来っこありません。ですから、私はおまかせとは、天命を信じて人事を尽すこと、という風に説いているのであります。人事を尽くさないでのおまかせなどは、普通の人のおまかせにはなりません。神仏の実在を信じ、神仏から自分に与えられた天命を信じた上で、その天命を神仏におまかせして、自己の置かれた立場で、真剣な努力を払う、というのが普通一般の人に出来る、おまかせ、であろうと私は思っております。

 私なども、こうした立場になる迄は、何か自分に天命があるに違いない、と思いながら、置かれた立場々々で懸命に、その仕事に従事していたのでありますが、ただ、他の同輩たちと違ったことは、常に、神に対して"どのような仕事でも結構です。神様のお仕事に私をお使い下さい”と念じつづけていたことでした。そうしましたら、私の著書「天と地とつなぐ者」にも書いてありますように”おまえのいのちは貰った覚悟はよいか”というような天の声が心内で鳴りひびいて、私が即座に"宜しうございます”と答えたので、それから、様々な守護神霊団の練磨にあって、大変な修業をさせられたのであります。そして、今日の私が出来上がったのであります。

 しかし、この修業が、とても大変なものであったので、私は、私の後からくる者たちに、このような苦労はさせたくないと思い、なるべく苦労少く、本心の開発が出来るようにと念願して、今日のような、守護霊、守護神の教、消えてゆく姿の教えを説いているのであります。

 自分の心の中に、自己批判の想いが強すぎると、自分で自分を苦しめ過ぎますので、すべてを、消えてゆく姿として、守護の神霊への感謝に想いを変えてゆくことを教えているわけであります。そして一歩進んでは、世界平和の祈りをすすめているのであります。真実は、世界平和の祈りの中から、あなた方の運命も世界の運命も、すべての運命が展けてゆくのであって、この祈りが、神へのお任せの祈りでもあるのです。

 この祈りをするところに、神霊の光明が白光燦然と輝く、ということは、会員の人々の実証しているところなのです。



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注: 上記回答内容等についての問い合わせ質問等は本会まで。(白光真宏会への直接問い合わせはご遠慮下さい)

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